札幌古書籍商組合は札幌市と近郊で営業している古書店が加入・運営している組織です。「日本の古本屋」でおなじみの全国古書籍商組合連合会に加盟しています。
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組合の沿革

        

新開地札幌での古書店の初まりは、明治25年(1892/当時人口2万6千)、狸小路に屋台のような店を開いた、代田(しろた)亀次郎「尚古堂」に尽きる。日を追って、本州からの移住により街並みの拡大、日露戦争の勝利から小樽の活況、人口の増加と、文化のひろがりは、古書肆尚古堂の発展につながり、明治35・36年には札幌駅前通り(旧拓銀本店前)の一等地に進出、その後「札幌堂」「一誠堂」「南陽堂」等、と主要地に本格的な古書店が生れた。
昭和初頭に12・13軒にふくれ上がった問屋の無い古書店同志は、いきおい流通上の市場の必要性にせまられたのであろうか、組合結成の動きが湧き上がった。
昭和5年(1930)尚古堂二代目代田茂氏(1897~1955)を組合長として札幌古書籍商組合が結成され、直ちに直営の市会が開設された。
こう書いては来ましたが確かな記録は、戦後の組合事務局店の取り壊しに依って失われたままで、いまは元老“高木庄蔵(南陽堂初代)、山野成之(一誠堂初代)、鈴木忠三(文献堂)”いずれも故人からの聞き伝えから記すのみです。
(『日本古書通信』誌の組合消息欄にある高木庄蔵の文章から、組合結成は昭和4年11月であったことが確認された)  しかし、これらの傍証固めの資料として「日本古書通信」第五号(昭和9)に「札幌市の古書籍商組合員は現在23名、(このときの人口18万8千)組合長は尚古堂代田茂氏、仲々の人格者なり-中略-古書市会は、札樽?合で毎月6日、19日の二回交互に開催、毎回出席者、二十名内外、帯広、旭川、岩見沢等各地からも馳せ参ずる。」 つづいて昭和10年2月号に「1月19日本年度最初の札樽?合市会開催、集まる者約30名、神田某書店主来札す。市会幹事の心づくしに依って余興の景品山をなす、最後に入札十数点、入札額に依って順位を決定。さすがに古書通だけあって差額殆ど無し、一等尚古堂、二等南陽堂、三等福田、四等以下略す。此の日の出来高一千百有余円也」とあり、この頃としては記録的な出来高である。
さらに東京の「古書月報」を調べてみると、昭和14・15年頃まで札幌組合では、毎月三の日3回と、札幌小樽?合市を6日と17日に開き、都合月例5回開催している。かつて鈴木文献堂氏に伺った話では、「当時の市会の会場は、札幌では『札幌祭典倶楽部』と狸小路の『観音堂』それに同業の国文堂、南陽堂さん等の持廻り。小樽では『水天宮倶楽部』が常設でしたね。またセリは通常振り市で、振り手は組合長の尚古堂さんでした。良く通る声で説明も要領よく、耳に残る名振り手でした」と。
いま、札幌古書組合によるこの頃の市相場は、「日本古書通信」(昭和11年通号66号)迄の五十数回に亘って掲載されている。以後は、東京組合の市相場公表禁止処置に至って実らなかった。
このように歩み始めた札幌中心の市会も、戦時に入る昭和15、16年頃から古書の出廻りが不足し、追っかけ古書公定価決定(昭和16年1月)が義務付けられ市会は窮地に立たされた。
戦時色の濃い昭和19年8月札幌古書組合も道内の各地の組合と統合・統制され、「北海道古書籍統制組合」札幌市大通り西4丁目6、尚古堂内代表代田 茂として、「全古書連会報」に公表されている。
こうして売買する古書は枯渇し、市場の機能も失われていった。ほどなく地の利の良かった主要古書店(札幌堂書店・一誠堂書店等)も疎開さわぎで街から姿を消した。
しかし戦災を受けなかった札幌でも、古書店の転・廃業と相俟って、組合員46名(新古兼業・貸本含む)は、昭和20年の終戦時に十数名に激減している。組合代表であった尚古堂・代田茂氏は出版者的素質が豊かで、用紙確保可能なこの北海道でいち早く「英会話」ポケット版を終戦2ヵ月後に出し、万の数字を数える売行きで意気軒昂としていた。しかし2,3年後の用紙生産開始で、所詮東京には太刀打ちできず、昭和25年三代目へ跡を継ぐことなく廃業に追い込まれた。
一方主力店「札幌堂書店」主は亡くなり、弟の「一誠堂書店」山野成之氏が疎開先きから、いち早く札幌三越前の超一流地を取得、東京以北随一の古書店として商い振りを発揮させた。このような実力者の変化から、組合の代表も代田茂から山野成之へと移行していった。
昭和23年頃東京、大雲堂書店の名番頭橋本祐寛氏が、札幌ススキノ入口角へ「東京堂書店」の屋号で独立開業、繁昌するも古書らしい商品が追いつかずニ年程で、新刊店に転業している。
既存の古書店も、極端な品薄状況の中、営業を続けられて昭和26・7年頃迄生き残った店は、南から「成美堂書店」「原田書店」「鈴木文献堂」「北海堂書店」「陽文堂書店」「並樹書店」「石川書店」「一誠堂書店」「国誠堂書店」「友厚堂書店」「南陽堂書店」の11軒であった。
このような激減ぶりは、札幌だけではなく小樽は二軒、旭川も二軒しか残らず、組合における市会は十余年中断したままであった。
この頃、結核に冒されて活動出来なかった「南陽堂書店」初代高木庄蔵に、次男庄治が東京の修行先から帰り、北大横の地の利を生かし、兄陽一(現南陽堂書店二代)と店を盛り返していった。この二人を中心に毎日同業廻りをする鈴木文献堂や、並樹書店初代、石川書店初代らと古書の市場を開き度い、少ない組員でも何とかなるだろう、会場は組合員の居間を持ち廻り親睦を兼ねてと組合長の山野成之に快諾を得て、昭和29年から月1回の振り市を再開しました。振り手は、相場カンの良い、声の良くとおる、前記鈴木文献堂が担当、時に入札を交じえながら、和気あいあいたる市会が永らく続いていった。
この間、南陽堂次男、高木庄治が札幌医大前に「弘南堂書店」として昭和32年11月独立開店。この年並樹書店初代がふとした風邪がもとで亡くなり、店は一人息子の幸彦(当時高校1年生・現並樹書店二代)を頼りに奥さんが守り通した。昭和38年11月、時折「日本古書通信」に販売広告を載せていた古川実が屋号「えぞ文庫」として組合に入会、札幌組合は13名となった。
冬の札幌オリンピック開催の報に沸いた昭和39年暮、弘南堂発案により「全北海道親睦大市会」と銘打って戦後初めての道内全店参加による市会の開催を組合に要望し、直ちにOKが取れ、同業は勿論、札幌組合としては始めてお客様へも出品勧誘の手紙を送付した。幸いにニ、三のお客様から優品の委託を受け横綴小冊子の略目録を作成した。
昭和40年2月2日、朝から降りしきる雪で、地方の業者の遅れが心配されたが、函館からは「いせや書房」「五十嵐大衆堂」「浪月堂」「第一書店」、小樽は「文屋書店」「博信堂」に、北は旭川から「古今堂書店」と、丁度、札幌へ移転した「大学堂書房」に「松崎書店」も参加した。勿論市内組合員は全員、これで戦後始めて道内全業者の顔ぶれが揃ったと、組合長の一誠堂山野成之は大喜びであった。
会場は、中島公園通り横の札幌スタンプクラブの2階、60畳ぐらいのフローリング敷きに27・8名がコの字型に坐り、手前中央に振り手鈴木文献堂、その右横に会計の石川書店、えぞ文庫、左横から荷出し弘南堂、振り手近くは、地方業者の面々、奥中央に一誠堂、その隣に成美堂という陣容であった。
午前10時頃、文献堂振り手の祝いの手拍子から緊張と熱気は昼食を過ぎても終始ダレル事なく、最終の「雪好画アイヌ絵幅」成美堂さーんの落札発声で終った。午後5時頃であった。総出来高は97万円。当時としては記録的でこの大市に参加した組合員の興奮はしばらく続いたのである。 (注・昭和40年頃の東京組合による大市の出来高は500万位)
(敬称略す、文責・高木庄治)